がんばろうニッポンの中小企業とは?

6次産業×6次産業で新たな広がりを

酪農家と工房の熱い想いが生むプラススパイラル

地元の牛乳を地元の人に飲んでもらいたいと生まれた「おおのミルク工房」(岩手県九戸郡洋野町)。酪農家が毎日自宅で飲む搾りたての牛乳の味を追求し、確かな品質で地元に定着させてきた。さらに、乳製品と地域の特産品をあわせたコラボ商品を開発。地域振興を実現する先駆者として、熱い情熱を注いでいる。

酪農家の想いを乗せて

岩手県と青森県の県境に近い岩手県洋野町は、県内でも畜産業が盛んな地だ。〝トンガリぼうし〞のような三角屋根が印象的な工房施設の裏には、雄大な牧草地が広がる。「ここは近隣の畜産業従事者にとってシンボリックな存在」。こう語るのは、おおのミルク工房の塩倉康美社長だ。

同社が使用するミルクプラントは、もともと1993年にJAが主体となりつくったものだ。当初は東京など首都圏への販売を目的としていたが、東京との距離がネックとなり、想定していたほど販路は広がらなかった。経費もかさむことから、次第に施設の運用を取りやめる方向へと話が進んでいった。

通常、搾乳された生乳は、大手のミルクメーカーなどに買い取られることが多いが、その場合、買い取られた生乳が最終的に何になったのか知ることはできない。「牛乳として売られたのか、アイスクリームになったのか、脱脂粉乳になったのか……。もしかしたら、そのまま廃棄されているかもしれない」(塩倉氏)。自分たちで加工施設を持ち、そこで製品をつくることができれば、家族同様にそだてている牛からとれた生乳が、最終的にどんな製品としてエンドユーザーに届くのかを見届けることができる。

地域の酪農家や酪農業に従事している人たちは、なんとかこの施設を存続させることができないかと模索。その結果、酪農家16人と酪農関係者など8人が資金を出し合い、酪農家主体の会社として2005年1月、有限会社おおのミルク工房を立ち上げた。


酪農家だけが知る味を

こうして誕生した同社は、まず販売ターゲットの変更を試みた。首都圏ではなく、地元に根を下ろそうと考えたのだ。それに伴い、製造方法やブランド名について、見直しを図った。以前は、首都圏向けに販売するために、販売先から言われた殺菌方法をとっていた。それを、酪農家が自宅で沸かして飲む味に近いものをつくろうと考え、変更した。「牛を飼っている酪農家だけが知っている味がある。それを再現することで、酪農家主体のミルク工房ならではの牛乳をつくることができると考えた」。こう語るのは、同社で工場運営や営業に携わっている浅水巧美企画部長だ。

まずは殺菌の温度や時間を変えたものを何種類か試作。地域のスポーツ少年団や老人クラブなどで試飲会を開催した。「600名にアンケートを取り、一番支持の多かったものを採用した」(浅水氏)。酪農家にも試飲してもらい、普段飲んでいる味に近いことを確認。こうして85度という、比較的低温で20分殺菌する方法が、同社の牛乳の基本的なつくり方となったのだ。

また、酪農家の夢は「地元の人に『おいしい』と喜んでもらうこと」(浅水氏)。それを商品にも表したいと、製品には「ゆめ牛乳」と名付けた。

こうして生まれた「ゆめ牛乳」だが、「立ち上げ当初は全く売れなかった」と浅水氏はその苦労を振り返る。スーパーなどの棚は大量生産でつくられた、価格の安い大手メーカーの製品がほとんど。店頭で試飲用の牛乳を子どもに渡そうとすれば、「どこの牛乳かわからないようなものは飲んではダメ!」と子どもが母親から叱られてしまうこともあったという。


震災をきっかけに

どこで育った牛の牛乳かを気にする親も多く、酪農家の夢を託した「ゆめ牛乳」という名が仇となった。だが、「製品には自信があった。飲みさえすればわかってもらえる」と地道に営業活動を続けた。また、地元の小中学校の給食に採用されたことで、少しずつ地域に定着していった。

さらに、11年の東日本大震災直後、全国的に乳製品が不足したことが同社にとっては追い風になった。

震災では、東北地方にあった多くの施設が被害を受け、道路が寸断されてしまったことで、流通が一時止まった。酪農家も従来の出荷ができず、せっかく搾った乳を捨てざるをえない状況となっていた。

「震災時、ウチの工房も被害に遭った。だが、応急処置を施し、翌日には稼働するまでにもっていった」(浅水氏)。これまで取り引きのなかった酪農家の生乳もできる限り引き受け牛乳を生産。1日1回しか稼働させていなかった設備を2回稼働させることで、従来の倍の量を生産し、これまで取り引きのあった地域のスーパーや小売店、宅配などを優先して出荷した。どの販売店も乳製品が不足しており、牛乳があるならいくらでも欲しいという状態だった。「でもウチは1日2回の稼働で10トンの製造が精一杯。これまでつきあいのあったスーパーを優先して製品を卸した」(浅水氏)。

取り引きのあったスーパーは、北東北に店舗展開をしていたものの、これまで同社の商品は、岩手県内や青森県の一部地域でしか販売されていなかった。だが、品薄状態が続いたことで、すべての店舗で「ゆめ牛乳」の販売を開始した。一時期は、がらんとした乳製品の棚に、同社の商品だけが並んでいるという状態だった。選択肢がなかったことで、初めて「ゆめ牛乳」を手に取った人も多くいたことだろう。

「だが、それがきっかけで、販路が一気に広がった」と浅水氏は言う。状況が落ち着きをみせ、以前のように大手メーカーの製品が棚に並ぶようになっても、同社の牛乳を買い続ける人が多かったのだ。


地域×地域で新たな展開を

確かな味を追求し続けてきたことで、チャンスをものにし、販路を広げている同社だが、今後は地域同士のコラボレーションで新たな展開を図っていくという。たとえば地域の農産物や海産物と同社の乳製品を掛け合わせて新製品をつくり、それを地域限定の名物にするなど、さまざまな案を検討している。

 
実際、県内のほかの地域の産物とコラボレーションをはかり、成功している事例もある。たとえば洋野町の近隣にある野田村は、海水からつくる塩の産地だ。だが「塩」だけではインパクトも薄く、特産品として売り出してもなかなか買っては貰えない。「どうにかして塩を使った乳製品がつくれないか」と同社に相談がもちかけられたのだ。さまざまな検討の結果生まれたのが、現在野田村の道の駅で販売されている「のだ塩ソフト」だ。開発当時、塩を入れたキャラメルやアイスクリームなどが話題となっていたこともあり、発売開始から好調な売れ行きを見せ、濃厚でおいしいと、評判となっている。

ほかにも、青森県田子町の特産品、ニンニクと合わせた「にんにくソフト」など、さまざまな地域の特産品をあわせてつくるご当地ソフトクリームは、各地域で人気商品となっている。

また、同社の取り組みが現在順調に拡大しているのは、「製造・販売を担当する自分たちも酪農家の苦労をわかっていることにあると思う」と浅水氏は言う。24時間、365日、生活の中心に牛がいる。酪農家が牛にかける愛情や情熱を間近にみていることで、「自分たちが一つでもおろそかにしたら、その苦労が泡と消えてしまうのだと思えば、否が応でも真剣になる」(浅水氏)。製造担当者たちが、製品づくりや新製品の開発に注ぐ情熱は、酪農家の日々の苦労を常に身近に感じていることから生まれるのだ。

逆に、情熱をもって製品をつくる浅水氏ら企画製造部門と常に接することで、生乳を提供する酪農家たちも、より一層いい牛を育てるべく情熱を注ぐ│。このプラスのスパイラルこそが、同社の飛躍の原動力といえるだろう。

現在、各地域で、生産から製品化までを行う6次化の動きが活性化している。同社の取り組みは、東北銀行を含む東北の地方銀行等が共同設立した、6次産業化支援の「とうほくのみらい応援ファンド」の支援案件として採択された。新たな可能性を生み出すこうしたファンドを活用し、より多くの乳製品を消費者へと届けるべく、更なる飛躍を目指す。


※月刊ビジネスサミット2014年5月号より

  • 有限会社おおのミルク工房
  • 岩手県九戸郡洋野町大野58-12-32
  • 0194-77-4301